『眼鏡越しの空』 A
 思っていたより遅くなってしまい、あわてて待ち合わせのドーナツ屋に駆け込むと、梢が一人窓ぎわの席に座っていた。
「ごめんね、遅くなって・・・みんなは?」
「5分くらい前までは待ってたんだけど・・・。楓が電車の時間があるから、って帰ったの。」
「梢も、帰っててよかったのにー。ごめんねー」
あたしが言うと、梢は静かに首を振った。
「どうしても、瞳子さんに相談したいことがあったの。・・・・楓のいないところで」
いつも明るい梢の顔は蒼白で、瞳には濃い影が差していた。ただならぬ気配にあたしは息をのむ。
「楓のいないところで、って・・・どういうことなの?」
そう問いかけた瞬間、梢の頬を涙がひとすじ、伝って落ちた。

 「もうだめ・・・あたしこれ以上見て見ぬふりできない・・・夏樹が好きなのはあたしじゃない、楓なの。・・・楓もたぶん夏樹のことを好きなの・・・だけど、二人ともあたしに遠慮してるの・・・もう、3人でいるのさえ苦しいの。どうすればいい・・・?」
 梢は、声を立てずに静かに泣いていた。あたしは何も言えなかった、気のきく言葉がどうしても出てこなかった。ただ、その場を繕うためのなぐさめの言葉をかけるよりほかなくて、結局その解決策を見いだせないまま期末試験に突入して、それどころではなくなってしまった。
  
 そして、試験が終わった翌週の月曜日。
「おはよっ、とーこさん、美和子」
あたしと美和子がいつものように登校すると、先に来ていた梢が笑顔で声をかけた。  
「あれ、梢ちゃん今日は眼鏡だね。どうしたの?」
「いやあ、コンタクトが合わなくなっちゃって」
美和子の問いに笑顔で答える梢。だけど、レンズ越しの瞳は充血して真赤で、眼鏡をかけてごまかしてはいるけれど昨夜泣いたのは明らかだ。そんなあたしの視線に気づいたのか、梢は、
「とーこさんにはいろいろ愚痴聞いてもらったりしたけど・・・ごめん、やっぱりだめだった」
そう、つぶやいた・・・。

 「瞳子か。・・・瑶子、いる?」
 本並先生からお姉ちゃんに電話がかかってきたのは、その日の夜のことだった。すぐに電話を取次いで、自分の部屋に戻る。
 下から、お姉ちゃんの声が聞こえてくる。かわいらしい、女の子らしい甘い声。時折聞こえる楽しそうな笑い声・・・・あたしは耳をふさぐ。
 あたしもいつか梢のように自分の恋心に決着をつけなければならない日が来るのだろうか。
 本当は、ずっとわかっていた。本並先生がお姉ちゃんの恋人だということを、初めて会ったときから気づいていた。だけど、好きになる気持ちは止められなかった。こんなふうに思うのはまちがっていると知りつつも心の底からお姉ちゃんを憎んだ。 
 
 物心ついたときには、牧島家は喘息持ちのお姉ちゃんを中心に回っていて、いつ起こるかわからない発作におびえつつ、壊れ物を扱うようにお姉ちゃんに接していた両親。そして母はまだ3歳のあたしに向かってこういった。
「瑶子ちゃんが病気で、お父さんもお母さんも大変なの。だから瞳子ちゃん、いい子にしていてね。泣かないでね。おとなしくしていてね」
呪文のように何度も言い聞かせた。両親に嫌われるのを恐れた小さい頃のあたしはその言いつけを素直に守った。
 
 泣いたらいけない。わがまま言っちゃいけない。いつもいい子でないといけない。寂しいなんて言ったらいけない。そうしていれば、きっとお母さんもお父さんもお姉ちゃんより自分のことを見てくれるようになる、そう信じて生きてきた。
 
 そんなある日、あの事件が起こった。
 目のけがで病院にかつぎこまれたあたしはすぐに手術を受け、数時間後麻酔が切れて目を覚ますと、病室には誰もいなかった。看護婦さんが気づいて駆けつけてくれるまでの数分間、あたしは絶望感に包まれていた。 
 こんなときにも、お母さん達はそばにいてくれないのだ、と。
 さらに、数時間後病室にやってきた母の言葉は、あたしの心を凍りつかせた。 
「瞳子!何でこんなことしたの!?男の子たちとけんかだなんて・・・ただでさえ瑶子ちゃんが発作起こして大変なのに・・・。眼鏡だって作り直すのにお金がかかるのよ」
 大丈夫、と心配してくれるだけで良かったのに、そんなことはいっさい言わず、瑶子ちゃんが待っているから、と着替えを放り出すようにしてさっさと家に帰ってしまった母。廊下を遠ざかっていく母の足音が聞こえなくなると、あたしは声を上げて泣いた。
 お姉ちゃんのことで頭がいっぱいだったのかも知れないけど、母にかまってもらえない寂しさと目の傷の痛みで、涙が止まらなかった。今まで、両親に嫌われないようにと自分の本心を押し殺してきたけれど、それがすべて無駄だったと思い知らされたあたしは、その日以降、家族に対して心を閉ざしてしまった。
 家族だけじゃない、まわりの人間全てに対して自分の本心を見せることをあまりしなくなった。
 『クールな瞳子』口の悪い奴には『血も涙もない女』と言われだしたのはその頃からだ。


 「とーこさん、誕生日おめでとー!!」
一学期の終業式の日、大掃除を終えたあたしが教室に入っていくと、梢・楓・絵里・麻衣があたしを取り囲む。次々に差し出されるプレゼント。
 1993年7月20日。今日あたしは17歳になる。
「びっくりした?瞳子ちゃん」
美和子がにこにこしてあたしを見る。
「もう、びっくりしたわよー。みんな何にも言わないから絶対忘れてると思ったし!あんたたちも人が悪いわねー」 
「ごめんねー。・・・と言うわけでこれ、あたしからのプレゼントね。それから、お母さんが帰りにうちに寄ってくれって。例によって毎年恒例、瞳子ちゃんのケーキ用意して待ってるから」
「ほんと?うれしいー」
あたしのほおがゆるみきったその時。
「お嬢さんがた、もうホームは始まってるんだがな・・・。さっさと席つけ、おまえら」
いつのまにか本並先生が教室に入ってきていてあたしの頭を出席簿で軽くたたく。

 「せんせー、今日とーこさん誕生日なんだよ」
 通知表をもらい、ホームルームが終わり。またあたしの席のまわりに集まってくるみんな。近くにいた本並先生に絵里が話しかける。
「―知ってるよ」
本並先生があたりまえのような顔で答えると、
「うっそ―っ!?」
はやしたて騒ぐみんな。
「あやしー。本並先生ってば。さてはとーこさんを毎日のよーに呼び出すのはデートのため?」
冷やかす絵里や麻衣。
「ばぁか。瞳子の姉ちゃんが俺と同級生なの。俺と瞳子は昔っからの知り合いだもん。」
平然と答える先生。少しがっかりしたけど、うれしかった。あたしの誕生日を覚えててくれたこと、それからみんなの前じゃ絶対に名字でしか呼ばないのに「瞳子」と名前で呼んでくれたこと。

 「おいおい瞳子、そんなにじ一っと俺を見るなよ照れるじゃねーか」
あたしの視線に気づいた先生が照れた表情でいう。
「瞳子(ひとみこ)とはよくいったもんだよなぁ。牧島の親はぴったりの名前をつけたよな。なんちゅうか、瞳子の瞳っていいんだよな。力強いって言うか。視線に有無を言わせない強さみたいなのを感じないか?稟としててさ」
そーいえばそうだね、と美和子がつぶやく。
「そうそう!初対面だととーこさんって近寄りがたい雰囲気するんだよね」
絵里もうなずく。 
「目は口ほどにものを言う、ってね。とーこさんにぴったりよ」
「そんなにあたしって目つき悪い?」
あたしの問いに
「ううん、そうなんじゃなくてねえ。とにかくね、まず目に視線が行くぐらい印象的な瞳なの。 ・・・あのね、あたし思うんだけど、瞳子ちゃんはね、眼鏡はずして化粧すれば瑶子さんに負けないくらいいい女になるって」
美和子がまじめな顔で答えてくれた。 そうだな、と先生もうなずく。期待しちゃいけない、ってわかってるけどすごくうれしかった。

 その夜、珍しくお姉ちゃんもお父さんも残業しないで家に帰っていた。
「一年にいっぺんの『お約束』だからな」
ビール片手に上機嫌の父。あたしとお姉ちゃんの誕生日には必ず家族全員そろってお祝いしてくれることになっている。普段はお姉ちゃん中心に回っている牧島家だけど、誕生日だけはなぜか平等にお祝いしてくれる。
 ごちそうをたいらげ、プレゼントももらい。あたしが幸せな気持ちでお茶を飲んでいたその時、玄関のチャイムが鳴った。出ていってドアを開けると、そこにはきっちりスーツを着こなした本並先生が立っていた。
 すぐにお姉ちゃんがとんできて、先生を招き入れる。母に代わって応接間にお茶を運び、あたしはそっとドアに耳を近づけて中の話を聞く。
  
 「本並くん、いつもうちの娘達が世話になって・・・今日はどうしたんだね」 
 本並先生は大学教授の父の教え子だ。緊張しているのか、しばらく沈黙が続く。やがて意を決したのか、早口の、でもはっきりと良く通る声がドア越しに飛び込んできた。
「あの・・・牧島教授・・・娘さんと、瑶子さんと結婚したいんです。僕たちは学生時代からいいお付き合いを続けてきました。そのことで今日はお伺いしたんです」






 その瞬間、あたしの中で、何かが壊れていく音がした。
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