あの海へ今帰りたい
1
『・・・・ママ!どうしても行くの?あたしたちを置いていくの?』
『ごめん真生子。ママ、どうしてもあなたたちとは一緒に行けないの・・・あの人を放っておけないの!』
おそらく町中の誰もが寝静まっているであろう、うっすらと夜が明けかけた午前五時。
今まさに家を飛び出そうとする母親を、15歳の娘が行かせまいと、その腕にすがる風景。まるでドラマのようだけど、やってるほうはもちろん必死の大まじめ。
『どうして?なんでそんなことができるのよ?16年間一緒にいたあたしたちを置いて、40近い人妻が、15歳下の若い男とどこかに行こうって言うの?信じられない・不潔よ!』
そう言った瞬間、ママはあたしの頬を引っぱたく。そして精一杯の力ですがりつくあたしを振り払う。
『止めたって無駄よ!ママはもう行くわ。それに、
今のあなたにそんなこと責める資格はないでしょう!
』
そう言って、くるりと踵を返してちょうどいいタイミングでやってきたタクシーに乗り込む。
もう何も言えずに路面に座り込んだまま、ぼうぜんと見送るあたしはいつのまにか今の22歳のあたしになっていて……。
「おい、真生子!どうした?悪い夢でも見てるのか?」
誰かがあたしの肩をつかんで揺さぶっている。それであたしはやっと現実に戻る。……母親にすがりついて泣いていた15歳のあたしでなく、ホテルの一室で男と抱き合ってる22歳のあたしに。
「うなされてたぞ、何か恐い夢でも見たのか?」
シーツごとあたしを抱きしめる彼。あたしはその腕をほどく。
「・・・水子の夢・・・」
ぼそり、とつぶやいたあたしに彼は引きつった顔で
「おいおい、冗談だろ」
再びあたしを抱き寄せようと手を伸ばす。
「冗談よ・・・」
あたしはその腕から逃げるように立ち上がる。
「・・・シャワー、浴びてくるわ」
シャワ−ル−ムの扉を閉め、シャワーのコックを一杯に開く。叩き付けるような水音がそれ以外の音を掻き消し、痛いくらいに肌に降ってくるお湯を受けとめながら、あたしはさっきの夢のことを思い出していた。
最近よく夢に見る。7年前・母が浮気相手の元へ走ったあの日のことを。
あれから一度も母には会ってないのに、夢の中の母は『今のあなたに私を責める資格はない』と反論する。
7年前の顔で、7年後の今のあたしを責めているのだ。
「・・・やな所だけママに似てくるよなぁ・・・」
鏡に映る自分に苦笑する。日に日に母に似てくる自分・・・・軽蔑してるはずなのに母と同じ恋をしている自分に。
シャワールームを出ると、彼は帰り支度を整えていた。
彼はもう会社にいるときの顔に戻っている。ぴしっとした身なり、眼鏡の奥から放つ冷静なようで鋭い視線、どこから見てもすきのない『エリートサラリーマン』の姿。そんなところを好きになったのだけど、今はその姿があたしの思いをはねつけるような強力なバリアに見えて、彼が完全に自分のものにはならないと思い知らされているようで、悲しいような・苦しいような・複雑な気分に襲われる。
「もう上がったのか?もうちょっとゆっくり入ってて良かったんだぞ?」
「・・・明日も仕事だしね。」
ドライヤ−を当てながらあたしは答える。
「家には親父が待ってるし。それに、今うちの課は人がどんどん減ってるから忙しいの。何かミスでもしたら自分自身がやばいもん。毎日『リストラの恐怖』と戦ってるわ。
あなたと違って。
」
もちろん、最後の言葉は彼への皮肉。チラリと彼を見ると、彼は苦笑いして煙草に火を付けていた。
彼の奥様は、彼にこれ以上のものはない、あたしにはどうがんばっても用意できないプレゼントを持って彼の元へ嫁ぎ、彼は自らの未来の地位を確実なものにした。
彼自身がよっぽどの失敗を犯さない限り、そして彼の義父である・我が社の専務の身に何か起こらない限りは、彼は『未来の役員』として会社に大事にされて、リストラの危機なんて全く感じぬままにエリートの道を歩いていくのだろう。平凡なOLのあたしには手の届かない世界を。
彼と別れてひとり電車に揺られ、流れるように通り過ぎる窓の外の風景を見つめながら、あたしはぼんやりと考えていた。
決して自分の思うままにならない恋・上司と先輩とその陰にちらつく『リストラ』の恐怖におびえながらの仕事。
今でもあたしを苦しめる、夢に出てくる母の存在。
その母と別れて7年、16歳年下の、あたしとは10歳しか違わない元・部下の女(ひと)と『できちゃった』結婚をしようとしてる父。
そんな人たちに囲まれて、今のあたしは誰からも必要とされていないような気がして、この世のものとは思えないような、どうしようもなく強い孤独感に襲われることがある。
こんなあたしでも必要としてくれる人は一体どれくらいいるのだろう。 あたしのいるべき場所は、一体どこにあるのだろう・・・。
2
「今、なんて言った?」
そうつぶやいた彼のあたしを見る目つきは、氷のように冷たかった。
来るべきものが来ない。それに気づいたのは一週間前だった。
そういえばここのところ食欲無いし、胃がムカムカして吐き気もする。でもそれは疲れやストレスから来る物だと思っていた。
だけどそれまで順調だった生理まで2カ月止まったままとなれば、どうしても行き着く結論は一つしかない。その結果を知るのが恐くて、病院にも行けず、検査薬も試せないまま時間ばかりが過ぎていき、どうしようもなくなって彼に相談すると、彼は顔色一つ変えずに言った。
「本当に俺の子なのか?」と。
ショックだった。地の底へ突き落とされたような気がした。
もちろん、彼には奥さんがいる以上・こういう返事が来るだろうとは思っていた。だけど、実際にそのせりふを聞いた今、想像以上のダメージがあたしを襲って、涙さえもでなかった。
それから先は何も覚えていない。そのままそこを飛び出してタクシーを拾い、気がついたらもう家の前にいた。
家に入ると、父の再婚相手・雪枝さんがきていた。・・・彼女も、子供が出来たことで父と結婚することになったけど、妊娠がわかった時どんな気持ちになったのだろう。今のあたしのように不安な気持ちになったのだろうか。
「あら、おかえりなさい!」
人を包み込むような穏やかな微笑み。出て行った母とは正反対の、いわゆる『和み系』のひと。
父が初めてこの家に彼女を連れてきたときは心の底からむかついたけど、今はその笑顔にすがりたかった。
「ねえ雪絵さん、お父さんとの子供が出来た時、どう思った?」
ある意味ぶしつけなあたしの質問に一瞬戸惑ったような顔をしつつも、彼女はゆっくり話しはじめた。
「こんなこと思うの私だけかもしれないんだけど・・・妊娠してる、ってわかったときすごくうれしかったの。和真(かずまさ)さん・・・お父様はもうこちらに帰っていたのだけれど、知らせようとか認知してもらおうとか全然考えなくて、愛する人の子供が出来た、私にも家族ができる・・・って単純にそれがうれしかったの。
私の母も未婚の母でね、母が亡くなって身内が誰一人いなかったからそう思ったのかもしれないけど。……まわりには『何寝ぼけたこと言ってるんだ、って怒られたけどね』」
肩をすくめて笑う雪絵さんはあたしより10歳も年上のはずなのに、その表情はまるで無邪気な少女のようで。
母が出ていって、それが原因で会社でもつらい立場に立たされて、なおかつあたしの面倒も見て一人でがんばってきた父が、彼女に惹かれる気持ちがわかったような気がした。
翌日・思い切って病院にいって検査してもらったら、妊娠ではなくストレスやたまっていた疲労で身体やホルモンのバランスが崩れている、と言われた。
そのあと彼に会って妊娠でなかったと報告をしたとき、彼は口では言わなかったけど、その目は明らかにほっとしたような、うれしそうな表情を浮かべていて、その時、初めて彼を憎いと思った。
数日後。くたくたに疲れきったあたしが家に戻ると、部屋のベッドの上にあたし宛の手紙があった。
少し厚めのその封書には、祖母の住む町の住所と『有嶋優海』と、高校の同級生の名前があった。
両親の離婚後・中学卒業と同時に、あたしは祖母の家に預けられた。
高校に入学して、知らない人ばかりの環境のせいか、あたしはいつも一人でいて、そんな中、一番最初に仲良くなったのが優海だった。
家が近所のせいか、お互いの家を行き来して、祖母が入院したときは優海の家で寝泊まりしたりと、優海のおかげで楽しい高校3年間を過ごしてきた。
料理が上手で、家族が帰ってきたとき笑顔で迎えてくれる優海のお母さんは、仕事と趣味に明け暮れて家事もろくにしない母と違って、あたしにとっては理想の母親像だった。その娘の優海が悪い子に育つはずもなく、一緒にいるだけで和む、その名の通り優しく穏やかな海のような、あたしにとって、なくてはならない大切な友達だった。
だけど、高校卒業後・あたしは元の東京の家に戻り、優海は地元に残って、それから一度も会うことはなく4年の月日が過ぎていた。
『Dear MAKIKO
暑い日が続いていますが元気ですか。
私もどーにかがんばってます。仕事はどんな感じですか?
東京でばりばり仕事をがんばってる真生子の姿が目に浮かぶようです。
私は・というと、ついに念願の広報課に配属されて、
慣れないことや失敗の連続で大変だけど、
ずっとやりたかった仕事だったから、残業増えちゃったけど
毎日が発見の連続で全然苦にならないの。
同封したのは、私が初めて編集に関わった今月号の『広報まさご』 です。
表紙の写真は、私が撮影したのが採用されたんだよ。
高校の時、よく真砂海岸で遊んだよね。
その頃を思い出しながら撮影したものです。
たまにはこっちに帰ってきてね。みんな待ってるから。 優海 』
同封されていた広報誌の表紙には、あの頃と変わらない真っ青な海と、波と戯れる子供たちの写真。どの子も笑顔で純粋な目をしている。机の上に飾った高校時代の写真の中のあたしたちも、同じような表情をしてる。心の底から楽しそうな笑顔でフィルムに納まっている。今のあたしに、こんな表情が出来るだろうか?
会社じゃ上司や先輩の顔色を伺ってびくびくして、彼と会っている時も、誰かに見られていないか・そればかりが気になって、笑うどころじゃなかったと思う。
高校を卒業してから4年しかたっていないのに。まだ22歳なのに。何であたし、こんなに疲れた顔をしているんだろう。
帰りたい。そう思った。
ただ無邪気でいられたあの頃の私に帰りたい。優しい人たちの住むあの海辺の町へ帰りたい。
たった3年間しか住んでいないのに、生まれ育った東京での19年間よりも、心の中に強く・深く印象が刻み込まれている真砂の町。
会社のことも彼のことも家のことも何もかもいやしてくれそうなあの海へ、帰りたい・・・・。
3
翌日。
あたしは真砂の駅に立っていた。
社会人になって3年目・初めて会社をずる休みした。
仮病を使って休みの電話を入れたとき、電話に出た先輩がさんざん当てつけがましいことを言ってたけど、今日のあたしはそんなことを気にする余裕さえなく、旅の支度をして朝のラッシュが終わって空いている電車に乗り込んだ。
まずは祖母の家へ。祖母が亡くなってから、一度も訪れなかった場所。さぞかし荒れ果てているだろう・・・と思ったら、庭には季節の花が咲き、芝生はきれいに刈り込まれていて、家の中もきちんと掃除が行き届いている。今でも人が住んでるみたいなたたずまいに息をのむ。
「あら、まあこちゃんじゃないの!」
振り向くと、そこには優海のお母さんが全く変わらない笑顔でそこにいた。
「まぁ、本当にきれいになって!おばさん、びっくりしたわよ」
「お久しぶりです・・・あの、ひょっとして庭の手入れはおばさんが・・・?」
「そうなの!まあこちゃんたちがいつ帰ってきてもいいようにね。だってこんなに素敵なお家なんだもの、草ぼーぼーにしちゃもったいないでしょ?近所の人たちと交代で掃除とかしてるのよ」
ああ、本当にここの人たちって・・・。懐かしい『優しさ』にふれて、思わす涙が出そうになる。
ここで暮らした3年間、ここに住む人たちの明るさと優しさに何度励まされたことだろう。全然変わらない暖かさがうれしく思えてくる。
「ただいまぁ」
夕方6時。優海が帰ってきた。
「もうっ、来るならもっと早く言ってよぅ」
口では文句を言いながら、それでもにこにこしている優海。
久々に会った優海は、お母さん譲りの笑顔は全然変わらないけれど、なんだか、その笑顔が前よりも輝きを増しているように思えた。きっと、手紙に書いていたように、好きな仕事に着いていることの幸せ・それを次々とこなしていく面白さに気づいて、今の自分に自信を持っているからこんな顔ができるのだろう。あたしにはその笑顔がまぶしくて、うらやましくて、まっすぐに優海の顔が見れなくなってしまった。
そのうちに優海のお父さんも帰ってきて、ますますにぎやかになる食卓とは裏腹に、あたしの気持ちはどんどん沈んでいってしまう。親子の会話なんて・あたしの家ではほとんどない。必要最低限の言葉を交わす程度だ。いつからこんな風になっちゃったんだろうか・・・・・。
夕食後・優海の運転する車で真砂海岸までドライブする。
夜の海は、昼と違って夜空をそのまま写し取ったように黒く、静かな波の音だけが辺り一帯に響いている。
沈んだ心をいやすために来たはずなのに、見せつけられる優海たちの幸せそうな笑顔や、昔と変わらない風景があたしの心を刺激して、本当は何もかもさらけだしてすっきりしたいと思っていたのに、ちょっとつつかれたらもう泣き出しそうな気がして、あたしは黙りこむしかなかった。
そんな気持ちが優海にも伝わったのか、余計なことは一切聞こうとしない優海の心づかいがありがたいとさえ思えた。
「ねぇ真生子、あんたあたしに何か言いたいことあるんじゃないの」
長く続く沈黙に耐え切れなくなったのか、ぼそり・と優海がつぶやいた。その言葉で、こらえていた涙があふれ出し、もう優海に軽蔑されてもいい、全て話してしまおうとあたしは決意する。
彼のこと、仕事のこと、家族のこと・・・あたしの心の中に溜まったものを全て吐き出すつもりで、優海に今までのことを話した。淡々と話すつもりだったのに、話しているうちに涙がどんどん流れ出す。
「・・・もう誰もあたしを必要としてない、会社にも家にもあたしの居場所はないって思った・・・もう疲れたよ・・・・帰れるものならあの頃に帰りたい、優海たちといつでも笑顔でいられたあの頃に帰りたいよ・・・・!」
最後のほうはもう涙でまともに声にならなかった。
その瞬間、優海があたしを抱きしめた。母親が子供をあやすように、ふんわりと、優しく、暖かく。
「東京の人たちが誰もあんたを必要としていないなら、またここに帰ってくればいい。少なくともあたしは、真生子にここにいてほしい。帰って来るなら喜んで迎えるから。あんたの居場所は、ここにあるから。」
・・・・・・アンタノ居場所ハ、ココニアルカラ。
今まで誰もいってくれなかった言葉が優海の口から出て、とうとうあたしはこらえ切れなくなって声を挙げて赤ん坊のように泣いた。
優海の優しさが心に嫌と言うほどしみ込んできて、心の中に溜まっていたものが少しずつ追い出されるような気がした。やっぱり、ここに帰ってきて良かった・優海たちと出会えて本当に良かった。そう思った。
「・・・・落ち着いた?」
気がすむまで泣きまくったあたしがうなずくと、優海はほっとしたような笑みを浮かべた。
「さすがに、泣きまくって美人が5割減になったひとを連れて帰る訳には行かないからね。どこかで直しなさいよ、その崩れた化粧」
優海の言葉に思わず苦笑いするあたし。
「あんたもちょっとは言うようになったじゃないの」
「当たり前よ。これでも二十代の『大人の女』なんだから」
「どう見ても中学生が化粧したような顔だけどねぇ」
「ほっといてよぅ。真生子に対抗するにはしゃべりぐらいなんとかしなきゃ。どうしたって『おミズ顔』にはなれないんだから」
「大きなお世話よ。はっきりした顔は生まれつきですぅ」
顔を見合わせて大笑いする二人。こんなに笑ったのは久しぶりだった。
そうしているうちに、あたしの中である一つの決意が生まれていた。
「荷物、これで全部ですかー?」
引越屋さんが叫ぶ。
「はい、全部届いてますー!ありがとうございました!」
半年後。あたしは再び真砂市の祖母の家を訪れた。今度は旅行じゃなく、ここに住むために。
優海に全てを話したあの日、あたしは決意した。この街に住もう・と。
会社に退職願いを出し、彼ともすっぱり縁を切った。
父をどうにか説得して、祖母の家に住むことを許してもらい、引っ越す前に家族だけで父の再婚祝いをした。今頃は、もうすぐ生まれてくる子供を心待ちにしながら、『夫婦水入らず』をしていることだろう。
退職金と預金をはたいて家の改装をしたとき、改装業者の社長さんに気に入られて、就職を紹介してもらった。順調すぎるくらいの再スタートに、東京にいるときにあんなにいろいろと悩んでいたことが嘘のようだ。
半年前のあの日、優海のおかげで悩みも苦しみも涙もすべて海に流す事ができた。今のあたしの心は、まっさらに生まれ変わって、これから何が起こるのか、わくわくした気持ちでいっぱいだ。
海の匂いのする風が、あたしの髪を揺らして通り過ぎていく。
海の見えるこの街で、あたしの新しい生活が始まる。
From Yuzuki
「星空が映る海」
の続編とも言うべき、真生子視点の物語です。
これも当初は所属サークル用に書いたんだけど、
締切に間に合わなくてサイトで初お披露目したいわくつきの作品(笑)。
実は、真生子父と雪絵さんのお話も、喫茶店シリーズの一環で書いてます。
そのうち日の目を見せてやりたい・・・・・・!
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